スポンサーサイト

  • 2017.04.02 Sunday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    里山歳時記 12月「雪」18th最終回

    • 2015.11.30 Monday
    • 16:26

     「会津の冬」と言えばほとんどの人が雪を思い浮かべるだろう。会津は雪国であり、多い少ないはあっても、雪の降らなかった年はない。それも必ず根雪になる。だから会津の冬の暮らしは雪とのたたかいに明け暮れる。本格的な雪が来る前に家々では家の周囲に雪囲いをする。家だけではなく庭木など雪の重みで折れたり倒れたりしそうなものには何から何まで囲いや支柱、雪吊りを施さなければならない。
     当然会津の人にとって雪は嫌われ者であり、皆降ってもらいたくないと思っている。しかし同時に昔から「大雪の年は豊作」と言い伝えられてきており、大黒柱に「豊年之冬必有積雪」と書かれたお札を貼っている家も多い。豪雪が後の豊かな稔りの源だということを人々は信じてきたのだ。実際春に一気に解け出す雪は厖大な量の水となって川から堰へと流れ、また堤(溜池)を満水にして、水田を潤す。飯豊連峰という高い山があるために、平地の雪がみな融けてしまった後も、稲の生育期間中は雪解け水が完全に途切れることはない。積雪が極端に少ない年に渇水で苦労したという経験は私にもある。
     雪は人々の暮らし方、生き方にも影響してきた。今は道路は除雪され車もあるが、かつては雪に降られると家の中で藁綯いや籠編みなどの手仕事をするしかなく、ひたすら春を待ち続けるほかなかった。春になると草木は一斉に芽吹き花を咲かせ、人は山菜を採り野良仕事に精を出す。夏の旱や大雨をなんとかくぐり抜け秋には収穫作業やキノコ採りにいそしむ。豪雪によってもたらされる振れ幅の大きなダイナミックな四季の変化に応じた生き方だ。

     災厄と恵みのどちらももたらす、というより人間の利害を超えたものとして雪(に象徴される自然)は畏怖の対象だった。「ゆき」という言葉の語源は諸説あるが「神聖なこと」を意味する「斎(ゆ)」と「潔白(きよき)」からという説が有力だとか。漢字の「雪」の成り立ちが、雨と、人が箒を手に持って掃く様を表象した「ヨ」を組み合わせて「箒で掃ける雨」という即物的なものであることと比較すると興味深い。先人たちは自然を人がコントロールできないもの、いや、してはいけないものとしてとらえていた。
     だが、今や人は原子力なるものにも手を染めて自然を自らに都合のよいように制御できると信じ、そうしようと突き進んでいるかに見える。今日ですら「昔に比べると雪はずっと少なくなった」と古老たちは言う。やがて科学技術の力で降雪を抑制できるようになるかもしれない。季節感は薄れていくだろう。その果ては?「天空の城ラピュタ」のようにならないことを願うばかりだ。

     1年半にわたり続けてきた「里山歳時記」も今回が最終回となります。お読みいただきありがとうございました。

    里山歳時記 11月「穭田」

    • 2015.10.31 Saturday
    • 19:44


    稲刈りが終わったあとの稲株から生えてくる稲を「ひつじ」と言い、「穭」という難しい漢字があてられる。「ひこばえ(蘖)」と同じだが、なぜか稲の場合のみ穭と呼ばれる。大辞林によると室町時代までは「ひつち」と言っていたらしい。いずれにしても、稲のひこばえをどうして「ひつじ」と言うのかはよく分からない。ただ漢字の「穭」のつくり「魯」には「間の抜けた」とか「愚かな」とかの意味があることから、「間の抜けた禾(いね)」「季節外れの稲」ということではないかと推測できる。
    私が会津に来る前に住んでいた埼玉では、穭はかなりの勢いで成長し、12月頃には穂もつけてもう一度収穫できるのではないかと思わせるほどだった。会津に来てみると穭がほとんど伸びないうちに稲株は雪の下になってしまうので、雪国会津の寒さをあらためて実感させられた。ところが、やはり温暖化のせいであろうか、ここ数年は会津の田んぼでも穭を見かけることが珍しくはなくなった。むろん穂をつけるほどにはならないが、年によっては20cmくらいまでは伸びたりする。そのため写真のように穭田が雪化粧するという光景も見られる。様変わりと言えば様変わりであろうが、これもまた会津ならではの風景だろう。
    穭がふつうに見られるようになった頃から、かつては雪国には生息していないと言われていたイノシシが会津でも目撃されるようになり、農作物の被害も増え始めた。イノシシが順応してきていることも確かだが、会津の冬の厳しさがかつてほどではなくなったのも事実であろう。もともと穭はある種の虫や鳥や草食・雑食動物たちにとっては初冬の時期の貴重な食べ物となってきた。その穭が伸びるようになったということは、いろいろな側面で環境が変化してきていることの一つの現われでしかないと言わなければならないのであろう。この変化をもたらしているのはわれわれ人間の行為であることは疑いない。
    11月になっても田の畦を歩くと、リンドウやノコンギクなど、まだまだたくさんの花を見ることができるが、この時期に目を惹くのはなんと言っても、新雪の降り積もった名残りの紅葉だろう。紅白のコントラストがなんとも鮮やかだ。


    文・写真 大友 治(喜多方市山都町在住)

    里山歳時記 10月 「刈田風」

    • 2015.09.28 Monday
    • 14:38

     10月中旬にもなると稲刈りはほぼ終わって一面の刈田となる。稲刈りの最盛期にはあちこちに人の姿やコンバインが見えていたが、今はもう祭りの後のようにひっそりと静まりかえっている。刈り株だけになった田んぼの上を晩秋の風が吹き抜けていく。遮るものがないので風はよけいに荒々しく、また冷たく感じられる。
     稲刈りの前は、農家にとって強風は大きな不安要素になる。とくに雨が加わると、せっかく稔った稲をなぎ倒してしまいかねないからだ。稲刈りが終わってしまえば刈田をわたる風にむしろ安堵感をすらおぼえることがある。さらに地域によってはこの風を積極的に利用もしている。
     新潟の山間部を通ったときのことである。かなり標高の高い峠道のS字カーブのわきの空き地で、1組の夫婦らしき男女が14段ほどもある高稲架に刈ったばかりの稲束を掛けていた。ふつう稲架(はざ)は稲刈りの終わった田んぼの中か近くの畦に立てる。しかし付近には田んぼらしきものはまったくない。不思議に思って訊いてみた。「どこの田んぼの稲ですか?」
     ご夫婦がかわるがわる話してくれたことによると、田んぼはずっと下にあって、刈った稲束を軽トラックでここまでわざわざ運んできたのだという。それはここが風の通り道でいつも勢いのある風が吹いていて、よく乾くからだとのこと。この時期になると日本海側では晴れの日はほとんど期待できない。だから太陽の日差しではなく風で乾かすのだと。
     会津もそうだが、日本海側の雪国では刈田風は冬の季節風の吹き始めである。晩秋から冬の間吹くこの風は冷たくきびしい。だが人々はこの風と上手に付き合いながら暮らしてきた。かつてはほとんどの家の軒先で見られた干し柿のできも、この風の具合に左右されることが多かった。水と違って目には見えないけれども、風は水とともに里山の暮らしにとってとても大切な意味をもってきたのである。
     刈田の畦ではリンドウの花をよく見かける。花もボリュームがあり濃い青紫の色と相俟って大きな存在感があるが、いかんせんこの時期に山の田んぼを訪れる人はほとんどいない。もちろんそんなことにはお構いなしに、静かなやさしさを湛えてリンドウは咲いている。

    文・写真 大友 治(喜多方市山都町在住)

    里山歳時記 9月「新藁」

    • 2015.08.31 Monday
    • 09:59

     9月は新米の季節であり、新藁の季節でもある。今はコンバインで細かく切断して耕運時に鋤きこんでしまうことが多くなったが、それでも藁は農家にとって必需品なので一部は切らずに残して乾燥し保存しておくことが多い。
     稲ほど植物体のすべての部分が多用途に活用されてきた作物はないだろう。白米もごはん、お菓子の材料、酒や麹の原料としてだけではなく、かつては糊としても使っていた。ご飯粒で紙を接着した経験のある人は多いだろうが、残りご飯を手拭いに包んで濡らして潰し、ばれんのようにして洗濯のりとして使っていたことを知っている人は少ないかもしれない。精米したときにできる粉糠は漬物のぬか床や肥料・飼料として。籾摺りで大量にでるヌカ(籾殻)はりんごなどの果実の保存・緩衝剤としてはプラスチックとは比べ物にならないほど優れている。籾殻はまたいぶし焼きにすることで燻炭として土壌改良剤や乾燥材、消雪材などに利用できる。
     なかでも用途の広いのは藁だ。そのまま紐として綯って縄として。編んでムシロや俵に。くつや蓑などの衣類に。きざんで土壁の素材に。燃やした灰は火鉢、囲炉裏、香炉、あくぬきなどに。もちろん積んで腐らせれば良質な堆肥になる。そのほか畳の芯材、納豆の菌源として、また農家にとっては家畜の飼料や床として、雑草よけの被覆材としてなどなど、枚挙に暇がない。まさに衣食住すべての領域において藁は欠かせないものだった。その意味で日本の文化を支えてきた核心的な素材のひとつだと言うことができよう。そしてその大きな特徴は簡単かつ速やかに土に還るということにある。
     残念ながらいま、藁の果たしていた役割の多くはプラスチックなどの化学的合成物にとって替えられてしまった。確かにプラスチックは藁に比べて丈夫で広域の流通に適している。その結果日々生活によって膨大なプラスチックごみを生み出し私たちの感覚もそれに馴れてしまった。藁も決して弱いわけではないが必要以上の強度はないので、循環に適している。それこそ日本特有の「柔」の文化の真髄ではないだろうか。
     同じイネ科のススキの穂がこの時期野山を飾る。ススキの茎は稲に比べて強度と撥水力があるので屋根葺きに使われてきたが、穂はなぜかさびしげである。

    文・写真 大友 治(喜多方市山都町在住)

    里山歳時記 8月 「精霊迎え」

    • 2015.07.30 Thursday
    • 09:04
     過疎化と少子高齢化が急速に進む会津の山村でも、お盆の時だけは人口が何倍にもなり、子供の声でにぎわう。これは今のところまだ変わっていない。成人して都会に出て行った子供たちが家族を連れて実家に帰ってきて墓参りをし、数日泊まっていく。
     お盆はもちろん仏教の盂蘭盆会に由来するものだとはいえ、たんなる仏教祭事におさまりきらない日本特有の民俗文化だ。とりわけ特徴的なのは先祖にたいする思いである。それが端的に示されているのは、いたれりつくせりの「精霊迎え」という一連の行事。これは集落ごとに少しずつ違うが、迎え火(門火)を焚き、通り道の草を刈ったり、キュウリやナスで馬や牛をつくったり、帰りの舟銭を用意したりする。山都町の沼ノ平や高郷町の大芦、田中などでは、決められた場所まで迎えに行って「あいばんしょ」と声をかけ、腰を曲げて両手を後ろで組んで背負う格好をし、先祖の霊を連れて帰る。このような習俗には先祖への労りがあふれている。先祖の霊は大変な難儀をして家に帰ってくると考えられていたようだ。


     これほどまでに労りの心に満ちているのは、日本人の自然観に関係している。生きている自分たちも、死んで霊になった先祖も、自然の大きな力の前では、とても小さく弱い存在だというとらえ方が根底にあるように思う。さらにかつての農山村の貧しさとも無縁ではないだろう。何かの功績をあげて家を繁栄させたとかということより、きびしい条件の中、田畑を守り家を守り子孫を残し、とにかく生き抜いてきた、その苦労をしのび、労り、慰める――お盆とはそういう祭りであるように思える。欧米では「ファミリー」の絆が大切にされ先祖は「○○家の誇り」としてその功績とともに記憶され称えられることが多いようだが、それとは興味深い対照をなしている。
     いずれにせよ、1年に何回か、離れていた家族がふるさとに戻り、過去に思いを馳せることは、意味のあることではないだろうか。


    お盆の頃、誰も来ない堰沿いの林縁でひっそりと咲いているヤマジノホトトギス。盆花として飾られることもあまりないようだ。
    写真/文 ・ 大友 治(喜多方市山都町在住)

    里山歳時記13 7月「出水と旱」

    • 2015.06.29 Monday
    • 11:32


    会津では7月は梅雨の真っただ中であることが多い。そのせいもあって農業災害の多い月だ。「梅雨出水」は俳句の季語にもなっている。梅雨明けの頃に多い雷をともなった集中豪雨や、入梅直前の頃の突風と雹・霰、そして雨のまったく降らない旱魃と、年ごとに変わる自然の猛威に農民は苦しめられてきた。
    私自身、山都に入植した年(平成8年)の7月に玉子ほどもある雹に降られ、20aのきゅうり畑が全滅するという事態にいきなり直面させられた。「大自然の力」というものを頭では分かっていたつもりだったが、実際に自分が耕作して肌で感じ取るものとはまったく違うということを思い知らされた。そしてこの体験から農村に豊作を願う祭りや風習がかくも多いのはなぜか、少し分かった気がした。豊かな恵みと同時にときには大いなる災いをももたらす、この人智を超えたものにたいする、感謝と畏怖。それが祭りの根底にあり、原動力となっているのだが、その気持ちは農耕が生きることそのものだったからこそ切実なものとして人の心の中に育まれたに違いない。
    天候などの自然条件の変化に左右されない計画的で安定した生産を可能にすることが、長い間農民の悲願だった。とくに東日本大震災以降、光・温度・水分・養分などを完全にコントロールして工業のように生産を行う「植物工場」に農業の未来を見出そうとする志向が強まっている。しかし農業(農耕)の意味は生産物をつくることだけにあるのではない。自然(環境)をつくり、人をつくる(再生産する)。人をつくる、というのは、自然への認識を深め観天望気などの智恵を体得し畏敬の気持ちを培うということと、共同体の結束を強めるということの両側面(縦と横)で。
    科学技術を駆使して生産物を効率的に生産することが農業のすべてだとされるなら、祭りも共同体も里山も不要になる。そのとき人と自然の関係はどうなるのだろうか。
    梅雨時に行われていた祭りの一つに「虫送り」がある。子供たちが笹竹に「五穀豊穣虫送り」と書いた紙や虫と一緒にカラオエ(カラアオイ、タチアオイ)の花を結びつけ、川に流した。そのため、タチアオイは「虫送り花」とも呼ばれている。

    写真/文 ・ 大友 治(喜多方市山都町在住)

    里山歳時記 6月 「さなぶり」

    • 2015.05.31 Sunday
    • 17:50
     

    6月になると田んぼは静けさと落ち着きを取り戻す。蛙の大合唱や草刈りをする人の姿はあるものの、田起こし、代掻き、田植えと多くの人が立ち働き、田んぼの様子もダイナミックに変化していった5月に比べると様相は一変する。そして6月初旬は田んぼが最も美しい時期でもある。まだか細い早苗の緑の網目模様と、鏡のような水面に映る青空や雲や朝日や夕焼けが織りなして、えも言われぬ光景となる。しかもそれは単なる絵画的な美しさではなく、生命の鼓動と輝きに満ちている。
     そんな植田をひとは安堵の気持ちで眺める。稲作が始まったころからこれはずっと変わらないのではないか。そして安心するのは人間だけではない。田植えを見守るために山から下りて来ていた田の神も、人間の仕事を見届け安堵して山に帰って行くと考えられていた。その田の神を送る祭りが「さなぶり」である。
     「さなぶり」という言葉は今日では死語になりつつあるかもしれない。使われたとしても「田植え休み」を指すことが多い。しかし本来さなぶりは収穫祭とともに稲作における二大祭事をなすものだった。さなぶりの語源には諸説あるが、もともと山に住んでいる田の神(「さ」)が田植えの無事を見届けて山に帰って行く、上って行くこと=「さのぼり」が転じてさなぶりとなったというものが有力である。そこで田の神=山の神とされていることは興味深い。稲の稔りも山の恵みのひとつと捉えられていたのであろう。
     山は今で言う大地あるいは大自然に近い意味をもっていた。明治時代にnatureとい英語が「自然」と翻訳されるまで、日本人には自然と言う概念がなかった(自然=じねんという言葉はあったが別の意味)。自然の恵みと脅威への感謝と畏怖を山の神に捧げる祭りとして表現していたのだとも言えよう。
     日本の祭りの大部分は農耕とりわけ稲作にかかわるものであり、稲作にとって祭りは不可欠の要素であった。(この項は来月号「出水と旱(ひでり)」につづく)
     さなぶりの頃咲くえごの花。釣鐘のように下を向いて咲き、散るときもそのままの形でストーンストーンと落ちて行く。やがて樹下は敷き詰められた花で真っ白になる。



    文・写真/大友治(喜多方市山都町在住)

    里山歳時記 5月「さつき」

    • 2015.05.02 Saturday
    • 08:38


     「さつき」というと多くの日本人は五月という月かツツジの仲間の花木を思い浮かべることだろう。だが会津では田植えのことを「さつき」と言う。会津に移住してまもない頃、5月の下旬に村の人から「もうさつきは終わったかい」と訊かれて、「いえ、まだ1週間くらいあるんじゃないですか」とトンチンカンな答えをしたことがあった。
     「さつき」が田植えのことだと分かってからもしばらくの間は、田植えは5月にやるから「さつき」と言うのだろうと思っていた。しかし調べてみると全く逆だということが判った。田植えを行う月ということで旧暦の五月を「さつき」と言うようになったという。「さつき」の「さ」は「さみだれ」や「さおとめ」「さなえ」「さなぶり」などの「さ」と同じで、稲、田植え、農耕、田の神(山の神)などを意味する言葉だったそうだ。稲(さ)あるいは早苗(さなえ)を大地に着けることから、田植えを「さつき」と呼ぶようになり、その「さつき」を行う月もまた「さつき」と言うようになったらしい。ちなみに「さつき」に当てられる「皐」という漢字には「神に捧げる稲」という意味もある。
     かつては山都でも田植えは旧暦の五月、すなわち新暦の6月にやっていた。それが稲の品種と育苗方法の改良により時期がどんどん早まり、今では5月の20日前後に行う農家がほとんどとなっている。そのため「さつき」という言葉とも違和感がない。実際には6月下旬から7月にかけての梅雨時の雨のことを「五月雨(さみだれ)」と言うのが今ではしっくりこなくなっているのとは対照的だ。
     古くから日本有数の米どころであり、稲作が生活の中心であった会津だからこそ、米作りにかかわる昔の言葉が継承されてきたのだろう。ところが会津でも若い世代の人たちは「さつき」とは言わずに「田植え」と言うことが多いようだ。そのうち田植えを「さつき」と言っても通用しない時代が来るかもしれない。
     水をなみなみと湛え、早苗が頼りなげに揺れ、青い空と白い雲を鏡のように映している田んぼの光景は、まさに会津人の心の原風景だと言えよう。この風景とともに「さつき」といういにしえからの農民の思いが積み重なった言葉を大切にしていきたいと思う。
     現在の田植時の山を彩るのは、旧暦の五月に咲くサツキではなくレンゲツツジやヤマツツジである。



    文・写真 大友 治(喜多方市山都町在住)

    里山歳時記10 4月「山笑ふ」

    • 2015.03.30 Monday
    • 10:56


      「山笑ふ」は今はおそらく俳句の季語としてしか使われていないので、耳慣れない人も多いかもしれない。芽吹きの頃の山のはなやかな様子を擬人法で表現したもので、出典は諸説あるが『臥遊録』の「春山淡冶(たんや)にして笑うが如く、夏山蒼翠(そうすい)として滴(した)たるが如し、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として睡るが如し」によるという説が一般的なようだ。夏秋冬の比喩が分かりやすいのに比して、春の喩えだけ少し飛躍があるような気がしないでもない。
     山が笑っているかどうかは別にして、若葉がいっせいに萌えはじめ山桜やこぶしが咲き競うさまが、人を笑顔にさせることは確かだろう。雪国会津では冬のあいだ杉や松をのぞけば山はただただ真っ白な雪と枯れ枝ばかりの、色のない世界なので、そこがみるみる緑やピンクに覆われていくのを見ると、だれだって心が躍る。
     真っ先に春の訪れを告げる木はブナだろう。会津ではブナは標高が高い山域にあるので、里から見上げた山の中腹より上で鮮やかな緑が見え始めたらまずブナだと思って間違いない。「森の女王」とも呼ばれるブナは、白っぽい樹皮もすっくとした立ち姿も秋の黄葉も美しいが、新緑はことのほか美しい。しかし木材としては腐りやすく役に立たないとして邪魔者扱いをされた時代もあった。ブナという呼び名の由来についても、歩留まりが悪く「分が無い」ことからとか、役立たずなので「ぶんなげる」ことからとかという説もあるほどだ。杉や檜による造林がさかんに行われたときには「ブナ退治」という掛け声さえあったという。
     しかし、近代化の過程で建築材料としては見向きもされなかったブナを、先人たちは素晴らしい技術で活用していた。十分に乾燥させ加工したうえで漆を塗ることによって高い耐久性を獲得していたのだ。木地師と塗師による協業によって。
     対照的な二通りの、自然に対する人の向き合い方をブナは静かに見守ってきた。そんな人間を見て山は笑っているのか、怒っているのか、それとも泣いているのか...
     ブナの若葉が目立つころ、カタクリの花が咲きコゴミが萌える。この光景はどれほどの間続いているのだろうか。



    写真/文 ・ 大友 治(喜多方市山都町在住)

    ■里山歳時記 3月「春田」

    • 2015.03.04 Wednesday
    • 16:27


     赤紫色の紫雲英(ゲンゲ)の花が一面に咲いているのが暖地の春田の代表的な情景だが、会津では3月には田んぼはまだ雪の下だ。平たん部ではかなり田面が見えてくるが、山都町の山間部などでは3月下旬になってようやく半分くらい顔を出せばいいほうだろう。それでも農家にとっては待ちに待った土との再会。雪国では冬のあいだ4ヵ月近くも土を見ることができないのだから。
     待っていたのは人間だけではない。雪の下ですでにふくらんでいた蕗の薹をはじめ様々な野草がいっせいに伸び始め、虫たちも蠢き始める。それを目当てに、北帰行前の白鳥なども腹ごしらえにやってくる。冬の間静まり返っていた棚田は一気に活気づく。
     私の暮らす本木地区では田んぼのほとんどは山にあるので、毎年住民がはじめて田んぼを訪れるのはフキノトウやアサツキなどの山菜を採るときだ。このころの田んぼは野鼠のあけた穴だらけになっている。このネズミ穴の数や状況を観察するのが、百姓(米農家)の最初の仕事だ。ネズミ穴は漏水の原因になるのでないにこしたことはないが、他面、土の中に虫が多く土が豊かであることの証左でもある。土は農作業にとって最も大切な、まさに土台であり、その状態を知ることからすべてが始まる。
     古代ギリシャ哲学で考えられていた世界を構成する四大元素「土・水・火(熱と光)・風(空気)」は生命の必須条件として捉えかえすことが可能だが、実際の「土」は他の3要素を包含しており、それゆえ植物の種子が発芽し生長するための揺籃になっている。 その土を鍬で耕すと、固さや湿り具合が分かるだけでなく、様々な虫や蛙や蛇などにも出会う。昔は田畑を耕すことを「打つ」と言った。「打診」「打てば響く」などの言葉からも連想されるように、「打つ」とは実際に触れて五感をもって対話するという意味をもつ。鍬からトラクタに代わって対話はかなり少なくなった。そして殆どの人が農業から離れ、土との対話がなくなったとき、生きることについての価値観はどう変わるのか。現代に生きるわれわれはその目撃者になろうとしている。
     雪の消え始めた畦に真っ先に咲く花々のなかで、コハコベの花はとても控え目だが、喜びでいっぱいに見える。



    写真/文・大友 治(喜多方市山都町在住)

    PR

    calendar

    S M T W T F S
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    31      
    << March 2024 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recommend

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM